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2012年 03月 09日
「なにを、なんのために書くか」みたいなこと
この記事に、興味深い問いがいくつもあったので、それに一つ一つ答える形で何か書いてみます。 なんのために書くのか、という問い 本記事では、書きたいキャラ・書きたい場面・書きたい世界がまずあって、それを形にすること自体が目的となりうる小説については除外して考えます。 つまり、このブログに書くような、考察やスタンス表明といった「自分の考え」をなぜ書くのか、という話ですね。 私はnakamurabashiさんと違い、ブログが登場して公表できる環境が整うまでは、「自分の考え」そのものを書く習慣はありませんでした。ブログ以前にも、掲示板やチャットでのコミュニケーションの中でそれらを表明することはありましたが、自分から主張するように書くことはほとんどなかったように思います。 だから、私が「自分の考え」を書き始めたときには、最初から公開を前提としていました。だからある意味「公開するために書いていた」といえそうです。 なぜ公表するのか? 今となっては我ながら不思議な感覚ではありますが、2004年にブログを開設してから2009年に100円ノートを始めるまでの間、公開を前提とせず自分だけのために「自分の考えを書く」という考えがまったくありませんでした。それほど、書くことと公開することが不可分に結びついていたのです。 書いても公開しなかったものがあることにはありますが、それも「書き上げてから公開をとりやめたもの」であったり、「公開するものの下書き」であり、最初から公開しないつもりで書いたことは、皆無と言っていいほどありませんでした。 2009年から100円ノートを使い始めてーーもっと正確には「情報は1冊のノートにまとめなさい」を読んで考えていることを見える化して頭を整理したり、心に詰まっている感情を解放するために書くことを知り、ようやくその意義を理解できました。 なぜこんな、不思議な順番になったのか? たぶんですが、道具や環境によって思考方法が規定されることに関係があるような気がします。 さて、「なぜ公表するのか?」という問い。 私にとってはこちらの方こそ自明であまり深く考えたことがなかったのですが、あえて言葉にするなら、 ・私の「考え・価値観」を知ってほしい ・そう考える「私」を知ってほしい の2点に集約されるのではないかと思います。 自分成分100%のnakamurabashiさんと、自分成分薄めの海燕さん、私はどちら寄りか 上の記事でnakamurabashiさんは、自分と対極にある書き手として海燕さんというブロガーを紹介しています。 海燕さんの文章の特徴を、記事の中から引用すると…… そして、そのぶれない軸を基準にして、簡潔な文章で、制御された筆致で、徹頭徹尾「ものごと」が語られる。語る主体はまあ人間なのだけれど、ここでは人間である海燕さんは「そういう軸を持つ存在」として機能していて、それ以上のことをいわない。 これと比較する形で、自身の文章についてはこう述べておられます。 自分の書きたいことしか書かない。自分の考えていることしか書かない。もちろんそこに商品価値がないことは俺も知っている。ならばどうするか。少しでも読む人が楽しめるように、読みやすさ、ネタ、笑い、そういうもので読んで「もらおう」とする。俺にとっての利益は「みんなが見てる場所でなんか叫べること」になる。 この二人のあり方を両端にしたとき、自分はどのあたりに位置するか。 結論から言うと、限りなくnakamurabashiさん側に近いと思います。 100%nakamurabashiさん側でないのは、差し出した「自分の考え」は基本的にたたき台であって、異論・反論があればそれを手がかりに考えを深めたり広げたりしたい、という希望が少しはあるからかな。 どういうときに痛いと感じるか 言い換えると、読者からのどんなリアクションが刺さると感じるのか、ですね。 「全くもっともな意見で論破されたとき」だという海燕さんと、「すべての批判は人格否定と感じられる」nakamurabashiさん。 私にも両方の感じ方は理解できますが、どちらもそこまで深くは刺さってこない気がします。 では、私がもっとも痛いと感じるのはどういうときか? それは、自分の考えや気持ちをわかってもらえなかったとき。 考えそのものを理解してもらえなかったり、書いた意図を読みとってもらえなかったり。また逆に、書いてもいない考えや意図を勘ぐられてしまったりすることに、深く傷つき激怒します。また、理解と同意はそれぞれ別のことと考えているので、「考えは理解できるけど同意できない」に傷つくことはありません。 だから、「誤解された」と感じたら、誤解を解くことだけに必死になってほかのことにいっさい気が回らず、それが攻撃的に見えたり言い訳がましく感じられる可能性もあるでしょうね。感情そのものに気づきにくい性質が私にはあるようなので、余計に。 改めて、なんのために書くか 私の「考え・価値観」を知ってほしい、そう考える「私」を知ってほしいーーあわよくば、理解して受け入れてほしいという欲求が文章を書く原動力になるとは、前にも述べたとおりです。 出発点は確かにそこなんですが、ここ最近は何が何でも自分を受け入れてほしいという欲は、若干薄まった感があります。受け入れる受け入れないは読んだ人が決めることで、私にできるのはそのための判断材料を一つでも多く提供することぐらい。 それはまるで、読めないほど分厚い「私」の取扱説明書を書くみたいな、楽しい反面苦しくてどこか不毛さの漂う作業なのかもしれません。
by tenhosai-north
| 2012-03-09 07:57
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