by 渡辺天和斎 Information
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2010年 02月 02日
この手のテーマでは、過去こんな恐ろしげな記事を書いておりました。
私のモノ書きとしてのスタンス 一般編 今回の記事は、いくつかの失敗とTwitterでのやりとりからと気づいた、リンク先の主張とは180°反対のことを、かなり控えめなスタンスで書いたつもりです。 が、元々デリケートな話題である上に、上記リンクのようなことを主張していた人間が書くことですので、楽しくなかったり「おまえが言うな」感満載だったりするかもしれません。 そこはそれ、これは上から目線の説教ではなく、何度も同じ失敗を繰り返した、しょうがない人のトホホな失敗談と、「こうしとけばよかったのかなあ」という個人的な悔恨だと思って、心の中でモチでもつきながら読んでいただければ幸いです。 従来の倫理観が現状に合わなくなってきた 私のこれまでのポリシーは、 「公の場で何か書く以上、誰かを傷つける可能性も、誰かから批判される可能性もゼロにはできない。だから覚悟して書き、批判は真摯に受け止めるべき」 というものでした。 でもこれ、公の場で何かを書くことが、商業ベースでしかできなかった頃の価値観なんですよね、たぶん。 だから、書いたことが届く範囲は、せいぜい売り上げ部数分の数千〜数万、まれにそれ以上という程度。 そして、書き手はたいていプロでしたし、編集者が原稿や寄せられた感想をチェックして、おおごとにしないようにしてたでしょう。読者の方も、アンケートはがきか出版社宛の手紙ぐらいしか筆者に声を届ける方法もなかったので、ハードルが高かった。 けれど今は、小学生でもブログを開設すれば、実際のアクセス数はどうあれ、第三者のチェックを受けることなく、世界中に発信できます。 読者が筆者に声を届けることも、一瞬でできるようになってしまったし、自分の書いたものに対してどんな言及がなされているか、検索して見つけることもできるようにもなりました。 そして、当時と今とでは、書いて発表してから、リアクションを目にするまでのタイムラグが全然違う。 言葉の交通量が、爆発的に増大したわけです。 実際の交通にたとえるなら、江戸の街と、現代の首都高くらいか、それ以上のように思います。 もう、人一人が受け止められる限界は超えてしまったのではないでしょうか。 そんな状況で件のポリシーは、軽自動車に乗る初心者ドライバーに、「事故に備えて車を装甲車に改造すべきだ」と言ってるようなもので、役に立たないどころか、かえって自分と周囲を萎縮させるものでした。 では、今の考えはどんなものか。 引き続き交通にたとえると、 誰でも事故の被害者/加害者になりうるということ。 事故と言っても死亡事故〜ちょっとした自損までさまざまで、よほど重大な事故でない限り、リカバリーの道が必ずあるということと、その具体的な方法。 このあたりでしょうか。 これをネットでの出来事に訳すと、 ネットで文章を書いている以上、批判される可能性も、書いたものが誰かを傷つけてしまう可能性もゼロにはなりません。 しかし、痛烈な批判や心ない中傷から身を守ったり、それで傷ついた心を癒す方法もそれなりにありますし、そのために誰かの力を借りてもいい。 書いたことがほかの人を傷つけても、よほどのことでない限り謝れば許してもらえることも多いですし、誰でもいつかはやってしまうことなので、焦って自分に×をつけなくてもいいのです。 といったところですね。 正義の怒りに気をつけよう これが、この十数年、同じ過ちを何度も繰り返したすえにやっと考えついた、標語みたいなもんです。 明らかに悪意のある誹謗中傷より、正義の怒りを発生源とするお節介な一言の方が、遭遇する可能性・心に与えるダメージともに大きいような気がします。 正義の怒りと言っても、実際のところは「その人にとっての正義」でしかありません。別の人には別の正義がありますから、これを一方的に押しつけるのは暴力です。 にもかかわらず、やってしまう。 なぜか、プライバシーなどの観点から伏せざるを得なかった事情に想像が及ばないどころか、時には文中に明記してある状況を読み落としてまで。 そこで正論の暴力性に無自覚なら、厳しい言葉をそのままぶつけてしまいますし、多少の自覚があって善意の忠告や助言に丸めても、文章にこもった怒りは伝わってしまいます。それが、言葉の表面上の正しさとも相まって、単なる誹謗中傷より深く相手を傷つける結果になるわけです。 お恥ずかしい話ですが、この十数年でやってしまった、両手に余るほどの失敗のほとんどが、これに起因します。 それほど、私のような者にとっては根の深い問題で、ここまでくると、単純な自制では防げないと思います。 ですから、誰かからの善意の忠告や助言で傷ついた場合、「相手はこちらの事情を知らないかも」と考えてみることが、現状を打開するヒントになるかもしれません。 一方、善意の忠告や助言という名のお節介ををしてしまう前に、相手が「書かなかった」事情に思いをいたすことは難しいものです。何しろ書いてないことは見えませんし、自分では気づかなくても怒りで頭に血が上っていますから。 余計な一言を、相手に伝える前に防ぐ方法は? では、正義の怒りに基づくお節介をして人を傷つけてしまう前に、それを防ぐ方法はないのか。 いくつか、対策のようなものを考えてみました。 前提となる状況は、ネットで「これは一言言ってやらねば」と思うような文章を見かけたときです。 1 まずは、PCから物理的に離れる。なるべくならその日いっぱいはネットにつながずに頭を冷やす。 2 そもそも、相手がアドバイスを求めていたかどうか思い出す。はっきりと求めていない限り、どんなアドバイスもお節介。 3 自分の感情に、意識を向けてみる(可能なら、気持ちが収まるまで折に触れて考え続ける)。 4 「何が」自分のスイッチを入れたのか、具体的に探してみる。 5 相手についてどのくらい知っているか、ソースを意識しながら挙げてみる。 6 感情も込みで、ローカル環境で全部書き出してしまう。印刷して一晩おいてから読み返す。 7 それでも気持ちが収まらなかったら、6から相手への言及を全部削って、自分のホームで、自分の経験談だけを淡々と語ってみる。 順番に全部と言わないまでもいくつかやれば、どこかで歯止めがかかるだろうと思います。 それでもやっちまうんだよ、にんげんだもの 逆に、ここまでやっても相手に何か言わずにいられなかった場合、縁を切られるのを覚悟の上で「やっちまう」しかないのかもしれません。 あるいは、途中まで試みても、耐えきれずに「やっちまう」か。 そりゃ当然、それでトラブルになるのはしんどいんですが。 そこまで抑えても言わずにいられなかったことを、力ずくで抑え込むと、あとで、もっと深刻な別の形で噴出するもののようです。私としては、そちらの方が怖い。 それに、そういうことが、ネットでの発信に限らず、人間関係で否応なく支払わされる必要経費のようなものではないかと、最近は考えています。 傷ついたり傷つけたりすることは、確かに心が痛くなる経験で繰り返したくはないものです。でも、どうやっても避けきれないものなら、必要な反省はした上で慣れてしまうのも、一つの手だてなんじゃないかいしら。 慣れるという表現はやや語弊があるので詳しく言うと、失敗の大きさを正しく認識し、立ち直れることをその都度思い出すこと。経験の浅いうちは、それこそ全人格を否定されたように落ち込んだり、相手を殺してしまったぐらいの罪悪感に凹んだりしがちですが、本当はそこまで大きなことじゃなかったと気付ければ、必要以上に苦しまずにすむと思います。 そして、もし「やっちまって」傷ついたり苦しんだりしても、苦しみはいつまでも続かないものです。 何もせずにいるうちに、時が解決するかもしれません。誰かに話したり助けを求めたりすれば、より早く楽になれるかもしれません。痛みに慣れたり自分の器が広がったりして、受けるダメージが相対的に小さくなるかもしれません。方法はいくつもあるようです。 自分が「どんな話題」に反応するか具体的に把握しよう でもやっぱり、同じ過ちを繰り返さないに越したことはありません。それは、同じダメージを自分にも与え続けることですから、自分を守るためにもね。 しかしねえ……反省だけなら私だってそのたんびにやってきたつもりなんですよ。 にもかかわらず、これまで十数回も同じ過ちを犯してきたのは、それが具体的な行動に結びついていなかったから。 そこで、過去に「やっちまった」ときの状況を、具体的に振り返ってみました。 いつ頃、きっかけとなった文章の内容、「やっちまった」自分の文章、なぜそんなことを書いてしまったのか、相手や周囲の反応、その後の対応……などなど。 ところが、これが予想以上に苦痛を伴う作業で、最初の1件目から心が折れかけました。 そりゃそうだ。自分の未熟さとか醜さとかを具体的に暴く作業だもの。 そこで、最低限「自分がどんな話題に反応してしまうのか」だけを可視化することにしました。 その作業を通してわかった、私の性質は二つ。 一つは、たとえ言ってる本人や自分の知らない対象についてでも、悪口を見聞きするのが嫌いだということ(これに関しては、だいぶ耐性がつきつつありますが)。 もう一つは、「自分が頑張りきれなかったこと」に言及されたとき、自分のそこまでの頑張りだけでも認めてもらいたくて虚勢を張るために、「やっちまう」ことが多いということでした。 本稿ではブログで公開するためにまとめて抽象化しましたが、「自分が反応してしまう話題」のリストを、作ってみるだけでも意味があると思います。 もしまた、同じ話題でティンとくる文章に出会ったとしても、「そこが自分にとって痛いところだぞ」と認識していれば、最初のブレーキがかかると思うんですね。 まとめ 長々と書いてきましたが、箇条書きでまとめます。 1 ネットで発信するのに、ガチガチのプロ意識は必要ありません。それよりも、失敗で受けたダメージをリカバリーできることやその方法を学んだ方が実用的です。 2 ネットで書いてるうちに、傷つけたり傷つけられたりするのは、転んだりリフトを止めたりしながらスキーを覚えるのと同じことです。よほどのおおごとでなければお互い様。あまり気に病まなくても大丈夫です。 3 悪意よりも正義の怒りの方が、歯止めが利きにくいようです。正義の怒りを感じたら、いったんPCから物理的に離れるくらいした方がよさそうです。 4 自分が「どんな話題に」過剰反応してしまうのか。それを把握しておくと、いざというときに自制がききやすくなるかもしれません。 参考リンク サイト運営を行っている創作者が凹んだときの心の対処法:テキスト王 否定されて心が折れたとしても…:かみんぐあうとっ ネガティブ思想のポジティブな力と失恋の教訓:はてこはだいたい家にいる なぜか饒舌になるとき:ほぼ日刊イトイ新聞「おとなの小論文教室。」
by tenhosai-north
| 2010-02-02 09:09
| 創作メモ
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