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2012年 03月 14日
ハードディスクを整理していたら、震災3週間後に書いた文章が出てきたのでうp。
前回に続き、震災によるストレス疲れが出てきた上にトラウマが噴出した頃のものなので、内容的には前回にもましてネガティブな感情の吐露が中心になっています。 こうしたものを公の場に出すことをどうかと思う向きもあるかと思いますが、震災のリアルな記録の一つとしてご覧頂ければ幸いです。 震災から3週間たって 東日本大震災から、そろそろ3週間。 最初の1週間はとにかく生活することに必死で、次の2週間目は計画停電に備えることに振り回され。 3回目の週末に、車で群馬まで遠出して今年の菜園グッズを買ってから、何か心の糸が切れたみたいな感じだ。震災直後にオープンしたホームセンターのにぎわいを見て、不意に涙がにじんだ。そこで、自分がレジャーとしてのドライブや買い物をしたかったんだとようやく意識した。それ以上に、そのときまでそうした自分の欲求に気もつかなかったほど、自粛ムードにのまれていたのか……と自分の感情を意外に感じていた。 深刻な被害を受けなかった人々の、震災後のふるまいの方向性として「自粛」と「こんな時だからこそ」の二者択一を迫られたような気がして、私は後者の意見を採ったつもりだった。復興のためには経済を回していかなければというのと、それぞれの持ち場で働き続ける人と、その仕事に対価を払う人がこの状況にもいることに勇気づけられた経験から。だから、あまり縮こまらないで、いつも通り淡々とやっていこう、と考えたはずだった。 にもかかわらず、あの開店直後のホームセンターで買い物をするまで、自分の楽しみのために消費しようと思えなくなっていた自分に気がつかなかった。 これはどういうことだろう? 自粛ムードにのまれて萎縮していたのかもしれない。阪神大震災が私の中でまだ終わっていなかったのに、新たな傷を上書きされて想像以上に傷ついていたのかもしれない。今回の震災のショックが大きすぎて、受け止められる限度を超えたのかもしれない。 少しずつ当てはまるそれらが、パズルのピースのように理由を組み上げていく中で、もっとも大きなピースとしてはまったキーワードが「共感疲れ」という言葉だった。 ーーああ、私は、「共感」という現象そのものにひどく疲れていたんだ。 と、元ネタのブログの文脈とは関係なしに腑に落ちた。 思えば、震災当日から「共感」や「思いやり」のエピソード情報を、ネットを通じて大量に摂取してきた。翌日以降は、ブログやTwitterなどで発せられる共感のメッセージそのものが、ネットに大量に流通する。普段はなかなか目に見えない愛が、形を持って豊かに流通するすばらしい光景だ。 なのに、私はそのすばらしい光景に戸惑っていた。 被災地の痛ましい光景はテレビで何度も目にした。家族・友人・家・仕事・田畑・船……大切なものを理不尽に奪われ、自らも不自由な暮らしをしなければならない人たちの様子だって見てきた。東北に住む友人やその家族のことはとても心配したし、私にとって浅からぬ縁のある施設の深刻な被災状況をテレビで見ては、その復旧のために何かできないかと考えた。 それでも、ネットという公の場所で、「被災された方に心よりお見舞い申し上げます」との一言も出せなかった。 「ことのあまりの重大さに声も出なかった」というのが、実感にいちばん近い。 けれども、そういうときに、たとえ型どおりであってもお見舞いの言葉をかけ合うのが思いやりというものだろう。それがとっさにできなかったことに打ちひしがれた。 そこへきて、「思いは目に見えないけど、思いやりは見える」というACのCMが、ずしんと堪えた。思いやりが見えるというのなら、それをを見せることができなかった自分は、思いやりのかけらもない冷酷な人間なのではないかという罪悪感が、ざくざくと胸に突き刺さった。 加えて、「不謹慎」という言葉が炎のように広がり、それを消火するような形で「私たちが元気にならないと」と対抗する流れが随所で起こっている光景にも違和感を覚えた。 この違和感は何だろう? 「不謹慎」と他者の言動をたしなめたくなる心境は理解できる。震災にショックを受けて日々を楽しむ気になれないときに、他人の浮かれた言動を見聞きしたら、不快になるだろう。 一方、「私たちが元気にならないと」と言う人たちの主張も理解できる。復興のためには経済を回す必要があるし、自分たちが元気でなければダメージを受けた被災者を援助する力もわかないし、いつまでも落ち込んでいるのは自分たちの精神衛生のためにもよくない。 両方の立場に一定の共感ができながらも、「不謹慎」という言葉が一人歩きして議論が過熱する光景に、直接の対立はなくても「こうしましょうよ」という意見が方々で発せられる光景に、激しく動揺した。 なんで、他人の心のありように気安く干渉するの? ショックで落ち込んだ心を慰めたり、鼓舞したりするには、一人じゃなくて団結した方がより効果的なんだろう、とは思う。深刻に被災した人々の苦しみに寄り添う気持ちの現れなんだろう、とも思う。 でも、こういう状況での、人の心の一番柔らかい部分から出てしまったであろう言葉について、「(あなたの発言は)不謹慎だ」とyouメッセージで咎めたり、「元気出しましょうよ」と明るくなることを勧めたりするのは、何かが違うと思った。 「公の場で発言する者の心構えについて、あれだけエラソーに何度も書いてたくせに」と言われれば、その指摘は甘んじて受けるしかない。 けれど、だからこそ、そうした他人の態度に干渉する発言が、100%善意からとは限らないことを、私は知っている。 自分の場所で述べるだけに飽きたらず、わざわざ人の場所に乗り込んでまでもの申すほどの強い行動に出る動機は、怒りにほかならない。少なくとも、私にとってはそうだった。 それは、不正に対する義憤や正義の怒りなどでは決してない。 自分のコンプレックスや古傷をえぐられた痛みに対する悲鳴とか、自分に禁じていることを行っている他者に対する嫉妬とか、もっと単純に、自分より優れた者への妬みとか。そういうどろどろとした醜い感情を、理屈と相手への執着で塗り固めたのが、私がやってきた「善意の忠告」の正体だった。 もちろん、私がネットで見かけた議論の参加者や、「元気を出そう」と呼びかける人々の動機が実際どうなのかは、私には知る由もない。詮索するのは下衆の勘ぐりというものだ。 ただ、人の心のありように干渉する発言を見るにつけ、先ほど述べたような自分のダークサイドに気づいたときのいたたまれなさが、生々しくよみがえってきて心が苦しくなる。 嫌なら見なければいいのに目を離せないのは、精神に対する自傷行為なのだろうか。
by tenhosai-north
| 2012-03-14 07:16
| 20分即興文
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